小規模案件の希望価格はどう決まっているか
評価の考え方と希望価格は別のもの
案件の一覧に載っている「譲渡希望価格」は、売り手が「この金額で譲りたい」と考えて出した数字です。一方、利益の何倍といった評価の考え方は、買い手が価格の妥当性を測るための物差しです。この2つは同じものではなく、希望価格が物差しどおりに決まっているとは限りません。
売り手の希望価格には、評価の物差しのほかに、次のような要素が入ることがあります。
- 設備や内装にかけた費用(過去の投資額)
- 借入の残高や、その返済に必要な金額
- 長年続けてきた事業への思い
- 仲介者やプラットフォームの目安をもとにした価格設定
- 実現できるかが曖昧な、将来の成長の見込み
買い手の側の物差しの使い方は、M&Aの相場は利益の何倍?年買法と小さな会社の価格の見方・交渉で説明しています。交渉の前提として、物差しで測った金額と希望価格の差だけでなく、「なぜその価格なのか」を先に考える姿勢を持つことが大切です。
M&Acompassが評価した案件の価格帯
M&Acompassがこれまでに評価した案件は累計122件(2026年9月時点)です。業種別に譲渡希望価格の中央値を抜粋すると、次のとおりです。
| 業種 | 評価件数 | 希望価格の中央値 |
|---|---|---|
| 美容・理容 | 10件 | 300万円 |
| 教育サービス | 10件 | 350万円 |
| IT・Web・SaaS | 9件 | 360万円※ |
| 不動産 | 9件 | 750万円 |
| 飲食店・食品 | 22件 | 1,150万円 |
| 建設・土木・工事 | 5件 | 3,000万円 |
| サービス業(法人向け) | 6件 | 4,143万円 |
※IT・Web・SaaSは、希望価格が「250万円以下」とだけ記載された1件を除く8件で集計。
同じ小規模案件でも、業種によって中央値は300万円台から4,000万円台まで開きがあります。同じ業種の中でも案件ごとの幅は大きく、「業種の相場」だけで個別の希望価格を判断することはできません。値下げを相談する前に、その案件の希望価格がどんな背景から出ているのかを、売り手との対話と資料の両方から確かめることが出発点になります。
実例:350万円の希望価格が160万円で成約するまで
ここでは、M&Acompassが支援した個人の買い手の案件を、匿名化して紹介します。価格の数字そのものより、「どの順番で、何を根拠に話したか」に注目してください。
最初の希望価格と最終的な成約価格
事例(匿名)
案件の情報には、譲渡希望価格として350万円が記載されていました。買い手は、感覚的な値切りではなく、客観的なデータに基づく交渉を重ねました。その結果、最終的には半額以下の160万円で成約しています。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 当初の希望価格 | 350万円 |
| 成約価格 | 160万円(当初の半額以下) |
| 交渉の進め方 | 売り手の事情を理解したうえで、客観的なデータを積み上げて話す |
価格が大きく動いた理由は、「強く値切ったから」ではありません。売り手が納得できる形で、根拠を一つずつ示したからです。
売り手の事情を先に理解してからデータで話す
根拠の示し方は、客観的なデータを積み上げて合理的に話すことが基本です。ただし、その前提として、売り手がなぜその希望価格を出しているのか、理由や背景を先に理解しておく必要があります。
売り手の考えや事情を踏まえずにデータだけで説明しても、「暖簾に腕押し」で話が噛み合いません。買い手が「正しい計算」をしているつもりでも、売り手には響かないことがあります。
実務では、次の順番で進めると噛み合いやすくなります。
- 売り手が希望価格をどう決めたのか、面談で率直に聞く
- その背景(事業への思い、譲渡後の計画など)を理解する
- 買い手としての評価を、決算書などの客観的なデータで説明する
- 売り手の事情と買い手の評価の差を、どこで埋められるか一緒に考える
決算書の気になる点をどう伝えたか
決算書で気になる点を交渉材料にする場合も、進め方は同じです。「この数字が悪いから下げてほしい」と指摘だけを並べると、売り手は責められていると感じやすくなります。
先に売り手の事情を理解したうえで、気になる点をデータで裏付けて話すと、売り手も「なるほど」と受け止めやすくなります。指摘ではなく、「この点をどう考えればよいか教えてほしい」という聞き方から入るのも一つの方法です。
M&Acompassの実務の視点
価格交渉は、データの勝負である前に、相手の理解の勝負だと考えています。売り手の希望価格には、計算だけでは説明できない理由が含まれていることが少なくありません。その理由を聞かずにデータを並べても、話は前に進みません。実務では、まず売り手の話を聞き切り、そのうえで客観的な根拠を一つずつ示す進め方をおすすめします。この事例で350万円が160万円になったのも、売り手の事情とデータの両方を踏まえて、落としどころを探った結果です。
値下げを相談するタイミング:意向表明の前とDDの後
値下げの相談は、意向表明の前と、DD(デューデリジェンス。買い手が会社の財務や法務などを調べる手続き)の後のどちらでも行われます。ただし、同じ値下げの相談でも、二つの場面では状況と相談の性質が違います。どちらが正解かではなく、場面ごとの前提を押さえたうえで臨むことが大切です。
意向表明の前:競争を踏まえた相談
意向表明書とは、買い手が希望する価格や条件を売り手に書面で示すものです。一般に、法的な拘束力は持たないとされています。この段階の相談では、開示された資料や情報をもとに、買い手の視点で会社を評価しておくことが前提になります。
加えて、案件によってはほかの買い手候補もいます。売り手は複数の意向表明を比べるため、競争原理を踏まえた交渉になります。競争が働いている状況では、値下げの相談が通らないことも珍しくありません。根拠のある評価でも、より高い条件を出す候補がいれば選ばれにくいのが現実です。
DDの後:新たに分かった事実を根拠にする
DDで新たな事実が見つかった場合、その事実を根拠に値下げを相談できます。たとえば、資料だけでは見えなかった債務や、設備の修繕が必要なことが分かったときです。事実に基づく交渉になるため、意向表明の前に比べると比較的通りやすい印象があります。
また、多くのケースでは、DDの実施にあたって独占交渉権(一定期間、売り手がほかの候補と交渉しない約束)が付与されます。ほかの候補との競争が止まった状態で話せる点も、この段階の特徴です。DDの進め方や費用は個人M&Aにデューデリジェンスは必要か、種類・費用・期間の解説で整理しています。
どちらでも通らないことがある理由
| 場面 | 相談の根拠 | 通りにくい主な理由 |
|---|---|---|
| 意向表明の前 | 開示資料に基づく買い手の評価 | ほかの候補との競争 |
| DDの後 | DDで新たに分かった事実 | 売り手の都合、まれに続く競争 |
DDの後の相談が合理的でも、売り手が応じてくれない場合があります。たとえば、M&A後の生活資金の確保など、売り手の都合で希望価格を下げられないケースです。買い手にとって正当な根拠でも、売り手の事情とは別の問題だと知っておくと、落ち着いて話し合えます。
また、まれに人気の案件では、売り手が複数の候補とDDを行うことがあります。この場合はDDの後も競争原理が働き、値下げの相談は難しくなります。対策としては、DDの前に独占交渉権の有無を確認し、競争が続くなら価格以外の条件も含めて提案の幅を考えておくことです。
交渉が壊れるのは値切り方より買い手の姿勢
価格交渉がこじれる原因は、「いくら下げてほしいと言ったか」よりも、買い手がどんな姿勢で売り手に向き合ったかに左右されると考えています。
信用を失いやすい言動
小規模案件の売り手には、長く続けてきた事業を手放そうとしている人もいれば、サービスや商品を立ち上げて間もなく、顧客がほとんどいない状態で案件として出す人もいます。どちらの場合も、「買ってあげる」という姿勢がにじむと、売り手からの印象は特に悪くなります。一度こうした印象を持たれると信用を取り戻すのは難しく、価格の前に交渉そのものが続かなくなります。
買い手に悪気がなくても、次のような言動は「買ってあげる」姿勢と受け取られやすいので注意が必要です。
- 売り手の説明を聞く前に、欠点の指摘から話を始める
- 「この価格では誰も買わない」など、相手の事業を下に見る言い方をする
- 希望価格の理由を聞かず、値下げの要求だけを繰り返す
対策は、売り手を「一緒に案件を成立させる相手」として扱うことです。指摘したい点があっても、まず事情を聞き、質問の形で確かめます。
データだけでは噛み合わない理由
利益の何倍かという目安や決算書の数字は、交渉の大切な材料です。ただ、売り手がその希望価格を出している理由や事情を理解せずにデータだけを並べても、「暖簾に腕押し」で話が噛み合いません。売り手が数字で価格を決めていないなら、数字での反論は売り手の判断の土台に届かないからです。
先に売り手の事情を聞き、そのうえでデータで裏付けて話すと噛み合いやすくなります。決算書のどこを見れば気になる点を拾えるかは、会社を買う前の決算書チェックリストで整理しています。
情報の非対称性を埋める進め方
よほど一方的な交渉をしない限り、話がこじれたり延びたりする原因の多くは、コミュニケーションの不足と情報の非対称性です。情報の非対称性とは、売り手は事業の中身をよく知っていて、買い手は限られた資料しか持っていない、という情報の差のことです。
この差を埋めるには、次の2つを並行して進めるのが近道です。
| 進め方 | 具体的にすること |
|---|---|
| 資料の依頼と質問 | 気になる点をまとめて依頼し、口頭の説明は書面や追加の資料で裏付けてもらう |
| 売り手の話を聞く時間 | 希望価格の背景、譲渡を決めた経緯、譲渡後に望むことを面談で聞く |
M&Acompassの実務の視点
価格交渉というと「どう値切るか」の技術が注目されがちです。しかし実務では、売り手の事情を聞く時間を先に取った買い手ほど、話が進みやすいと感じています。聞いた内容は次の質問や資料の依頼につながり、情報の差が縮まるほど、提示する根拠も売り手に伝わりやすくなります。値下げの相談は、その積み重ねの先にあるものと考えています。
価格を下げる代わりに折り合う条件
価格そのものが動かないときも、支払い方や引き継ぎの条件を変えることで折り合える場合があります。ここでは、個人の買い手が小規模案件でよく検討する工夫を3つに分けて整理します。
分割払い・アーンアウトの考え方
譲渡代金の後払い(分割払い)や、アーンアウトは、個人M&Aでもよく検討される工夫の一つです。アーンアウトとは、譲渡後の業績が一定の条件を満たしたときに、追加の代金を払う取り決めのことです。実際にこうした手法はよく取られています。
ただし、注意したいのは、これらの工夫は多くの場合、買い手にはメリットがある一方で、売り手にはメリットがないことも多い点です。売り手から見れば、受け取る時期が遅れ、受け取れるかどうかの不確実さも増すからです。提案するときは、買い手の都合だけでなく、売り手も納得できる条件に組み立てる必要があります。
| 工夫 | 買い手の見方 | 売り手の見方 |
|---|---|---|
| 分割払い(後払い) | 手元の資金が少なくて済む | 受け取りが遅れ、回収の不安がある |
| アーンアウト | 業績の不確実さを価格に反映できる | 譲渡後の業績を自分で左右できない |
退職金を使うスキームの注意点
売り手(代表者)への退職金を組み合わせるスキームも、よく検討されます。株式の譲渡価格を下げる代わりに、会社から売り手に退職金を支払う形です。
ただし、実行には前提があります。まず、対象の会社にその分の現預金が必要です。手元の資金が薄い会社では、そもそも成り立ちません。また、退職金の金額は会社が任意に決められますが、損金として認められるかには税務上の条件があり、不相当に高額な部分は損金に算入されません。財務・税務の両面から慎重に検討したうえで、税理士などの専門家に相談して進めることをおすすめします。
引継ぎ期間・在庫・設備で調整する
価格を下げる代わりに、価格以外の条件で折り合う方法もあります。たとえば、次のような調整です。
- 引継ぎ期間を延ばしてもらい、売り手に一定期間は現場に関わってもらう
- 在庫の扱い(譲渡の対象に含めるか、別に精算するか)を決め直す
- 古い設備の扱い(引き取る範囲や、更新費用の負担)を切り分ける
売り手にとっては、価格を守ったうえで買い手の不安に応える形になるため、受け入れやすいこともあります。価格の一点で押し合うのではなく、売り手にあらゆる可能性や選択肢を提案することも、方法論としては一つの考え方です。
売り手が値下げに応じにくい理由と、見送るか続けるかの目安
根拠を示して相談しても、希望価格が下がらないことがあります。買い手は「説明が足りないのか」と迷いがちですが、実務では、価格が評価のロジックとは別の理由で決まっていることが少なくありません。
評価とは関係ない売り手の事情
売り手の希望価格が下がりにくい背景としてよくあるのは、次のような私的な事情です。
- 「今後の生活資金として、これぐらいは欲しい」
- 「他の事業を始めるために、これぐらいは必要」
こうした価格は、利益の何倍かという評価とは関係なく決まっています。そのため、買い手が決算書や設備の状態を根拠に説明しても、売り手の側に下げる理由が生まれません。
売り手も買い手も、相手の事情をすぐには納得できないものです。実務では、交渉を重ねる中で落としどころを見つけていくと考えています。一度の提案で結論を急がず、売り手が何のためにその金額を必要としているのかを知ることが、次の提案の出発点になります。
影響度合いとリスク許容度で判断する
希望価格が下がらないまま交渉が続くとき、見送るか続けるかの目安は、次の2つのバランスです。
| 見る点 | 考えること |
|---|---|
| 気になる点の影響度合い | その価格で買った場合、資金繰りや回収の見通しにどれだけ響くか |
| 買い手自身のリスク許容度 | 想定より悪くなったとき、自分の資金や経験で持ちこたえられるか |
影響が小さく、自分で引き受けられるなら続ける余地があります。影響が大きく、引き受けきれないなら、価格以外の条件で埋められない限り見送る判断になります。無理に続けた末に起きやすいつまずきは、M&Aの失敗例と防ぎ方|個人の買い手が案件選び・交渉・引継ぎで起きることでも整理しています。
納得と引き受けを分けて考える
M&Acompassの実務の視点
売り手の事情に納得できることと、その価格のリスクを自分が引き受けられるかは、別の問題だと考えています。「生活資金が必要なのは分かる」と思った瞬間に、買い手は価格を受け入れる方向に傾きやすくなります。けれども、納得は売り手の側の理由であり、引き受けられるかは買い手自身の資金と経験で決まります。実務では、この2つを分けて書き出すことをおすすめします。納得できても引き受けられないなら見送る、納得しきれなくても引き受けられる範囲なら続ける、という整理が、感情に流されない判断につながります。
参考にした資料
- M&Acompass「成功事例|1ヵ月で成約・利益2倍! 個人M&Aを成約させるための専門家活用方法」(M&Acompass(Shylph))
- 中小企業庁「中小M&Aガイドライン(第3版)-第三者への円滑な事業引継ぎに向けて-」(時点:令和6年8月)
- 国税庁タックスアンサー(5208)「役員の退職金の損金算入時期」(時点:令和7年4月1日現在法令等)
- 法人税法 第34条 役員給与の損金不算入(条文)(税務研究会(zeiken.co.jp 法令データ))
- 法人税法施行令 第70条 過大な役員給与の額(条文)(税務研究会(zeiken.co.jp 法令データ))