「利益の何倍」とは何か:投資回収期間として考える

M&Aの相場は「利益の3倍」「利益の5年分」といった言い方で語られます。この「何倍」「何年分」は、買った金額を何年分の利益で取り戻すかという投資回収期間と同じ意味です。この見方を押さえておくと、相場の数字をただ当てはめるのではなく、自分の判断として価格を考えられるようになります。

年数=自分が何年で投資を回収するか

小さな会社の売買でよく使われる年買法(年倍法)は、次の式で価格の目安を出します。

価格の目安 = 純資産 + 営業利益 × 年数

用語を短く説明します。

  • 純資産:会社の資産から負債を引いた、正味の財産。貸借対照表で確認できます
  • 営業利益:本業で稼いだ利益。損益計算書の売上から原価と販売管理費を引いた金額です
  • のれん:純資産を超えて支払う部分。「営業利益 × 年数」がこれに当たります

式のうち純資産は、会社にいま残っている財産なので、比較的はっきりしています。価格を左右するのは「年数」です。年数を3年にすれば、純資産を超えて払った分を3年分の利益で取り戻す計算になります。つまり年数を決めることは、「自分は何年で投資を回収するか」を決めることと同じです。

年数を上げ下げする3つの決め手と、競争という現実

年数は固定の数字ではなく、対象の会社や事業の中身によって上げ下げします。見る点は主に3つです。

決め手見る内容年数への影響
安全性特定の取引先や人に依存していないか、負債は重くないか不安が大きいほど下げる
継続性引き継いだ後も同じ利益が続きそうか続きにくいなら下げる
成長性市場や事業が伸びているか伸びていれば上げる判断もある

成長している事業であれば、M&A後に利益がさらに増える可能性があるため、年数を上げる判断が妥当になることがあります。逆に、利益が減る見込みなら年数を下げるのが自然です。

ただし、実務ではもう1つ無視できない要素があります。他の候補者との競争です。良い案件であるほど、事業の中身だけでなく、ほかの買い手との比較の観点が出てきます。そのため、交渉上の理由から年数を動かさざるを得ないこともあります。年数は自分の回収期間であると同時に、競争の中で決まる数字でもあるのです。

業界の一般的な年数は3〜5年と言われています。一方で、個人の買い手は会社に比べて失敗したときの影響が大きく、資金の余裕も限られます。リスクを抑えて検討する意味で、2〜4年程度を基準にしてもよいと考えます。

M&Acompassの実務の視点

M&Acompassでは、年数を「相場だから」と決めることはしません。まず、自分が何年で回収するつもりかを決め、そこに安全性・継続性・成長性を加えて調整します。そのうえで、他の候補者がいる案件では、譲れる年数と譲れない年数をあらかじめ分けておきます。競争で年数を上げるとしても、自分の回収期間の上限を超えない範囲にとどめることが、無理な価格で買わないための線引きになります。

サイト・プロダクト単体の売買は期間をさらに短く見る

スモールM&Aでは、1つのWebサイトや1つのプロダクトだけを売買するケースもよく見られます。事業というより、商品そのものの売買に近いものです。こうした案件では、会社の売買より年数をさらに短くし、1年や6か月程度で評価することもあります。

基準にするのは、そのプロダクトの有効利用期間です。検索順位や流行の変化で収益が落ちやすいものは、利益が続く期間も短いと見るのが自然です。例えばサイト売買では、月間営業利益の12〜24か月分が目安とされ、収益が落ちやすいサイトでは6〜12か月分程度まで短く見ることもあります。何年分で見るかは、対象が「会社」なのか「商品」なのかによっても変わる、と覚えておいてください。

年買法(純資産+利益の数年分)の計算の手順

年買法(年倍法)は、会社の純資産に利益の数年分を足して価格の目安を出す方法です。理論的に裏付けられた評価方法ではなく、あくまで簡便法です。それでも小さな会社の売買で広く使われるのは、計算が分かりやすく、売り手と買い手の双方が交渉の基準にしやすいからです。計算は次の3つの手順で進めます。

手順1:純資産の確認と調整

直近の決算書のうち、貸借対照表(資産と負債の一覧)の純資産を確認します。純資産は、資産の合計から負債の合計を引いた金額です。ただし、帳簿の数字をそのまま使うのは避けます。帳簿と実態がずれている「含み損益」を、次の点で調整します。

  • 売掛金:長く回収できていない取引先の分は、資産から差し引いて考える
  • 在庫:古いもの、売れる見込みの薄いものは、帳簿の金額より低く見る
  • 固定資産:設備や車両が実際に使える状態か、時価と帳簿の差がないかを見る
  • 帳簿にない負債:未払いの費用や、将来の支払いの約束がないかを聞く

調整した後の純資産がマイナス(債務超過)になることもあります。その場合でも、利益が出ていれば価格の目安はつきますが、引き継ぐ負債の重さを別に確かめる必要があります。

手順2:利益の確認と年数の掛け算

利益は、本業のもうけを表す営業利益を基本にします。ただし、小さな会社の決算書の利益は、オーナーの報酬や経費の扱いで実態とずれていることが多いです。その見直し方は後の見出しで説明します。見直した利益に、前の見出しで考えた年数を掛け、手順1の純資産に足せば目安が出ます。

下の表は架空の数字で、純資産500万円・年間の利益300万円の会社を例にしたものです。年数の違いで目安がどれだけ変わるかが分かります。

架空の例

純資産年間の利益年数価格の目安
500万円300万円2年1,100万円
500万円300万円3年1,400万円
500万円300万円5年2,000万円
−200万円(債務超過)300万円3年700万円

同じ会社でも、年数を2年にするか5年にするかで価格が900万円も変わります。年数の決め方が価格交渉の中心になるのは、このためです。

株式譲渡と事業譲渡での違い

年買法の「純資産」をそのまま使えるのは、会社の株式ごと引き継ぐ株式譲渡の場合です。株式譲渡では、借入金も現預金も含めて会社の全体を引き継ぎます。そのため、借入金が多ければ純資産が小さくなって目安は下がり、現預金が多ければ目安は上がります。株式譲渡の仕組みと流れは、株式譲渡とは何か、メリット・デメリットと進め方の解説で確かめられます。

一方、事業譲渡では、会社の一部の事業に関わる資産と負債を選んで引き継ぎます。純資産の代わりに「引き継ぐ資産から引き継ぐ負債を引いた金額」を基礎にし、そこに利益の数年分を足します。事業譲渡では会社の借入金は売り手の会社に残り、買い手が引き継がない形にするのが一般的です。どちらの形で買うかによって、同じ会社でも価格の見方が変わる点に注意してください。

3種類のバリュエーションと小さな会社での使い分け

バリュエーション(企業価値評価)とは、会社や事業がいくらに相当するかを見積もることです。評価の方法は数多くありますが、大きく「コストアプローチ」「マーケットアプローチ」「インカムアプローチ」の3つに分けて整理するのが一般的です。「利益の何倍」や年買法も、この3つの考え方の延長にあります。まず全体の地図を押さえておくと、売り手やアドバイザーの説明を理解しやすくなります。

コストアプローチ・マーケットアプローチ・インカムアプローチ

考え方何を見るか代表的な手法長所短所
コストアプローチ貸借対照表の純資産(資産−負債)簿価純資産法、時価純資産法決算書から計算でき、客観性が高い将来の稼ぐ力やのれん(ブランド・顧客基盤)を反映しにくい
マーケットアプローチ似た会社や似た取引との比較類似会社比較法、類似取引比較法市場の相場感を反映できる小さな会社では比較できる相手や取引の情報が少ない
インカムアプローチ将来の利益・キャッシュフローDCF法、収益還元法将来の収益力を価格に織り込める将来予測の前提しだいで結果が大きく変わる

表の分類と手法の名称は、企業価値評価の一般的な整理に基づいています。どれか1つが常に正しいわけではなく、それぞれに向き不向きがあります。大きなM&Aでは、専門家が複数の手法を組み合わせて価格を幅として示すこともあります。

個人の買い手・小さな会社ではどれを使うか

結論から言うと、小さな会社の売買では純資産(コストアプローチ)を土台に、利益を足して考える方法が現実的です。インカムアプローチの代表であるDCF法は理屈のうえでは優れていますが、個人の買い手には使いにくい理由が2つあります。

  • 将来予測の前提を置けない:DCF法では数年先の売上・費用・投資の計画と、割引率(将来のお金を今の価値に直す率)を決める必要があります。オーナー1人に依存する小さな会社では、引き継いだ後の数字を合理的に予測しにくく、前提を少し変えるだけで価格が大きく動きます。
  • 費用に見合わない:精度の高いDCF評価を専門家に依頼すると、評価そのものに費用と時間がかかります。価格の小さい案件では、評価にかける費用が価格に対して割高になりがちです。

マーケットアプローチも、非上場の小さな会社では似た取引の価格がほとんど公開されていません。そのため、参考程度にとどまることが多いのが実情です。

こうした事情から、年買法(純資産+利益の数年分)は、コストアプローチの「純資産」にインカムアプローチの「利益」を加えた簡便法と位置づけると分かりやすいです。厳密な理論値ではなく、売り手と買い手が同じ土俵で話すための共通の物差しだと考えてください。3つの手法それぞれの詳しい解説や留意点は、M&Aのバリュエーション(企業価値評価)の意味と留意点の解説記事にまとめています。この記事では、年買法を中心に小さな会社での使い方を見ていきます。

決算書の利益をそのまま使わない:実態の利益の見直し

年買法に当てはめる利益は、決算書に書かれた数字そのものではありません。オーナーが交代したあとに、その会社や事業が実際に生み出せる利益(実態の利益)です。ここを飛ばすと、価格の目安そのものがずれてしまいます。

なぜ決算書の利益をそのまま使うと危ないのか

M&Acompassの経験では、決算書の利益をそのまま「利益の何倍」に当てはめて価格を見誤る原因は、大きく2つです。1つは、検討そのものに手を抜いている場合です。もう1つは、そもそも利益を見直すべきだと認識していない場合です。実際には、この2つで大半を占めます。

小さな会社の決算書の利益は、オーナーの判断で大きく動きます。役員報酬を多く取れば利益は小さく見え、報酬を抑えれば利益は大きく見えます。私的な支出が経費に混ざっていれば、利益は実力より小さく出ます。逆に、一時的な売上が入った年だけを見れば、実力より大きく見えます。

売り手が出す資料に嘘があるわけではありません。ただ、売り手は会社をよく見せたいという動機が働きやすい立場です。だからこそ、買い手の側で事実を見極める姿勢が欠かせません。

裏付けの取り方:客観的なデータで事実を見極める

売り手の説明は参考にしつつ、鵜呑みにしないことが出発点です。説明の一つひとつを、決算書・取引先との契約書・請求書や領収書などの証憑で裏付けます。たとえば「主な取引先との契約は続きますか」と聞くだけでは足りません。契約書の期間や解約の条件を、自分の目で読みます。

この裏付けの確認は、簡易なデューデリジェンス(DD:買収前の調査)にあたります。何をどこまで調べるかは、個人M&AでのDDの種類・費用・期間をまとめた記事で整理しています。

事実の見極めができれば、役員報酬や私的な経費の調整は自ずとできます。逆に、見極めをしないまま「役員報酬をいくらに置き換えるか」だけを考えても、土台が曖昧なままです。

M&Acompassの実務の視点

価格を見誤る買い手の多くは、だまされたわけではありません。売り手の資料をそのまま「事実」として受け取り、裏付けを取る工程を飛ばしています。M&Acompassでは、売り手の説明を「主張」、決算書や契約書・証憑を「事実」と分けて読みます。両方がそろって初めて、利益の数字に意味が出ます。小さな案件ほど「見るほどの資料はない」と言われがちですが、だからこそ、出せる資料は必ず出してもらい、買い手の側で事実を組み立てる必要があります。

見直す項目のチェックリスト

実態の利益を出すときに、よく見直す項目を挙げます。

  • オーナーの役員報酬:買い手自身(または雇う責任者)の想定の報酬に置き換える
  • 家族への給与:引き継ぎ後も働くか、働かない場合に代わりの人件費がいくら要るか
  • 私的な車両・交際費:事業に不要な支出は利益に足し戻す
  • 一時的な売上や補助金:翌年以降も続くかを分け、続かない分は除く
  • オーナー個人に依存する売上:オーナーの人脈や技術で成り立つ売上は、引き継ぎ後に残るかを慎重に見る

こうして調整した利益が、年買法に当てはめる「実態の利益」です。調整の根拠は、どの資料のどの数字から出したかを示せる形にしておきます。資料があれば、売り手との価格の話し合いも具体的に進めやすくなります。

「売上の何倍」で価格を見てもよいのか

売上倍率が語られる場面

ネット上の相場表や、売り手の希望価格の根拠として、「年商の何倍」という目安を目にすることがあります。売上は決算書の一番上にある分かりやすい数字なので、話の入口として使われやすいのです。

しかし、M&Acompassの見解は明確です。投資回収や、買った後の継続・発展を考えるなら、評価は利益ベースで出すべきです。これまでの評価の経験で、売上で評価すべき業種や案件に出会ったことはありません。例外があるとすれば、売上がほぼそのまま利益になる案件(売上≒利益)に限られます。ただ、仕入れも人件費も家賃もない事業はまれです。

売上で見ると危ない理由は、同じ売上でも利益が大きく違うからです。

架空の例

項目事業A事業B
売上3,000万円3,000万円
原価・人件費・家賃2,400万円3,100万円
利益600万円−100万円

売上の何倍で見れば、2つの事業は同じ価格になります。しかし事業Bは赤字で、買った後も現金が減り続けます。赤字でも売上は大きく見える、という点が売上倍率の落とし穴です。

利益ベースに置き直して考える

売り手から「売上の何倍」で価格を提示されたら、次の手順で利益ベースに置き直します。

  1. 提示された価格と、その根拠になっている売上の数字を確認する
  2. 決算書から、原価・人件費・家賃などの費用を引いた利益を出す
  3. 提示価格が「その利益の何年分」に当たるかを計算する
  4. その年数で投資を回収できるか、自分の基準と照らし合わせる

たとえば架空の例で、売上3,000万円の1倍として3,000万円を提示されたとします。利益が300万円なら、提示価格は利益の10年分です。10年かけて回収する投資になるため、小さな会社の価格としては慎重な判断が要ります。

売上倍率は、あくまで話の入口にすぎません。価格の妥当性は、利益に置き直してから確かめましょう。

利益がない・赤字・0円に近い案件の価格の見方

小さな案件では、利益がほとんど出ていない会社や、譲渡希望価格が0円に近い案件も珍しくありません。「利益の何倍」で計算できないとき、価格をどう見ればよいのでしょうか。

利益で評価が出ないなら「評価が出ない」が答え

大前提として、評価は利益をもとに行います。決算書や証憑をしっかり調べたうえで利益ベースの評価が出ないなら、「評価が出ない」が妥当な結論です。「立地がよい」「設備が新しい」といった別の理由を無理に探し出して、評価を変える必要はありません。

M&Acompassの実務の視点

赤字の案件でも、「自分なら黒字にできる」と考えて価格を上乗せしたくなる場面があります。しかしそれは、まだ実現していない改善を買い手が先払いすることと同じです。利益ベースで評価が出ない案件は、まず「価格はつかない」と置きます。改善の見込みは価格ではなく、引き継いだ後の自分の努力として扱うのが安全です。

資産性の高い事業は資産も加味する

例外は、不動産事業のように資産性の高い事業です。利益が薄くても、保有する資産そのものに価値があるなら、資産性を加味して評価することは妥当です。ただし、決算書の金額(簿価)と実際に売れる金額(時価)は一致しないことがあります。資産の実態は、登記や査定の資料で確かめてください。

0円案件で代わりに見るもの

0円に近い案件では、「利益の何倍」の代わりに次の点を見ます。

  • 引き継ぐ負債や保証:株式譲渡では、会社の借入金もそのまま引き継ぎます。経営者保証の引き継ぎを求められるかも確認します
  • 資産の実態:在庫や設備が実際に使えるか、回収できない売掛金が残っていないか
  • 利益が出る構造か:引き継いだ後に、どの費用を減らし、どの売上を伸ばせば黒字になるかを具体的に描けるか

0円でも「安い」とは限りません。負債や引き継ぎの負担が、実質的な価格の代わりになっているからです。0円案件の実態と見極め方は、ゼロ円で会社を買う方法と注意点で詳しく解説しています。

個人の買い手の場合、引き継いだ後の回収の見込みが立たないなら、見送ることも価格の判断の一部です。価格が0円であっても、回収できなければ投資としては成り立ちません。

業種別の価格の目安:M&Acompassが評価した122件から

ここまでは価格の考え方を見てきました。この見出しでは、小さな会社の案件が実際にどのくらいの価格で出ているか、M&Acompassが公開している数字で確かめます。

業種別の譲渡希望価格の中央値

M&Acompassがこれまでに評価した案件は、累計122件です(2026年9月時点)。このうち、業種別に譲渡希望価格の中央値を公開しているものを、価格の低い順に並べました。

業種評価件数譲渡希望価格の中央値
美容・理容10件300万円
教育サービス10件350万円
IT・Web・SaaS9件360万円
旅行業・宿泊施設6件500万円
不動産9件750万円
サービス業(消費者向け)5件750万円
小売業・EC10件1,100万円
飲食店・食品22件1,150万円
医療・介護6件1,875万円
建設・土木・工事5件3,000万円
サービス業(法人向け)6件4,143万円

※2026年9月時点・累計122件の評価に基づく。IT・Web・SaaSは、価格が「250万円以下」とだけ記載された1件を除く8件で集計。

この表を読むときの注意が2つあります。

  • 数字は「売り手の希望価格」の中央値です。成約した価格でも、「利益の何倍」という水準そのものでもありません
  • M&Acompassは、サイトで公開している数字だけを引用しています。掲載案件をもとにした新しい集計や、個別の案件の新しい評価は、この記事では行いません

目安はあくまで出発点:個別の利益から考える

表を見ると、同じ「小さな会社」でも、業種で希望価格の水準が10倍以上違うことが分かります。ただし、より大事なのは、同じ業種の中でも案件ごとの差が大きいことです。たとえば飲食店・食品の22件は、評価がA 3件からD 4件まで分かれています。希望価格が中央値に近いからといって、その価格が妥当とは限りません。

業種の目安は、「この案件は業種の水準と比べて高いのか、安いのか」を考える出発点にとどめてください。最終的な価格の判断は、前の見出しまでで見た手順のとおり、その案件の実態の利益と純資産から組み立てます。業種ごとの評価の内訳や傾向は、業種別レポートの一覧にまとめています。検討中の案件の業種から読んでみてください。

売り手の希望価格が目安と大きく離れているときの交渉

利益や純資産から計算した目安と、売り手の希望価格が大きく離れることは珍しくありません。差が大きいからといって、すぐに見送る必要はありません。差が生まれた理由を知り、根拠を示して話し合えば、歩み寄れることがあります。

まず売り手の希望価格の理由を理解する

交渉の前提は、売り手がなぜその金額を出しているのかを理解することです。売り手には売り手の考えや事情があります。それを踏まえずに「計算ではこの金額です」と伝えるだけでは、話が噛み合いません。いくら合理的に説明しても「暖簾に腕押し」になりがちです。

希望価格の背景には、たとえば次のようなものがあります。

  • 借入金の返済や引退後の生活のために、最低限必要な金額がある
  • 創業からの思い入れがあり、自分の仕事の価値を金額で示したい
  • 仲介者や知人から「このくらいで売れる」と助言を受けた
  • ほかにも候補者がいて、高い金額を提示した人がいる
  • 相場をよく知らず、何となくの金額を置いている

どれに当たるかで、取るべき対応は変わります。返済に必要な額が理由なら、支払い方法の工夫が効くことがあります。思い入れが理由なら、事業をどう引き継ぐかを丁寧に伝えることが先です。

客観的なデータを積み上げて合理的に伝える

理由が分かったら、自分の目安の根拠を客観的なデータで示します。決算書、主要な取引の契約書、売上や経費の証憑などです。「安くしてほしい」ではなく、「この資料からこう計算しました」と伝えます。

話を進めやすい伝え方は、次の3つです。

伝え方具体例
計算の根拠を資料で示す純資産と実態の利益、何年分で見たかを1枚にまとめて渡す
差の理由を質問して聞く「希望価格はどのような考えで決めましたか」と率直に聞く
相手の事情に合わせて提案する返済が理由なら、金額と支払いの時期を合わせて提案する

売り手を責める形になると、話は進みません。「同じ資料を見て、一緒に価格を考えたい」という姿勢が大切です。

M&Acompassの実務の視点

価格交渉で大切なのは、客観的なデータを積み上げて合理的に話すことです。ただし、それだけでは足りません。売り手がその希望価格を出した理由や背景、根拠を先に理解する必要があります。売り手の考えや事情を最大限に踏まえたうえで根拠を示して初めて、話が噛み合います。M&Acompassでは、希望価格の理由を聞くところから交渉を組み立てています。

価格以外の条件を組み合わせる

金額だけを上げ下げすると、どちらかが譲る形になります。価格以外の条件を組み合わせると、両方が納得できる着地点が見つかりやすくなります。

  • 引き継ぎ期間:売り手に一定期間残ってもらい、その分を価格や報酬で調整する
  • 支払い方法:一括ではなく、分割や引き継ぎ後の実績に応じた支払いにする
  • 引き継ぐ範囲:古い在庫や使わない設備を外し、その分を価格に反映する
  • 譲渡の時期:売り手の希望する時期に合わせる代わりに、価格で配慮してもらう

分割払いや実績に応じた支払いは、買い手の資金負担を抑える一方で、後の不払いの不安を売り手に与えます。支払いの条件は契約書に明記し、専門家に確認してもらうと安心です。

売り手の事情を汲みながら2カ月で話をまとめた実例は、仕事を続けながら2カ月の交渉でM&Aを成約した事例(売り手を慮る交渉術)で紹介しています。価格の根拠の示し方と、相手の事情への配慮の両立を具体的に確認できます。

架空の例で計算してみる:小さな飲食店の価格の目安

ここまでの見方を、架空の数字で一度通して計算してみます。実在の案件ではなく、手順を確かめるための例です。

架空の例の前提

架空の例

地方の小さな飲食店(個人経営・株式譲渡)。売り手の希望価格は1,500万円。

  • 直近の決算書の純資産:300万円
  • 決算書の営業利益:150万円
  • オーナーの役員報酬:年240万円(買い手が自分で店に立つ前提なので、調整しない)
  • 経費に含まれていた私的な支出(家族の車のリース料など):年60万円

私的な支出60万円は、買い手に引き継がれない費用なので利益に戻します。実態の利益は150万円+60万円=210万円と置きます。

年数ごとの価格と希望価格との差

年買法で「純資産+実態の利益×年数」を計算すると、次のようになります。

利益の年数決算書の利益のまま(150万円)実態の利益で計算(210万円)希望価格1,500万円との差
2年分600万円720万円−780万円
3年分750万円930万円−570万円
4年分900万円1,140万円−360万円

実態の利益に直すだけで、同じ年数でも120万〜240万円の差が出ます。一方、希望価格との差は4年分で見てもまだ360万円あります。この差が「何年で回収するか」の違いなのか、売り手が利益以外の価値を見ているのかを分けて考える材料になります。

同じ利益210万円でも、対象が店ではなくWebサイト1本の売買なら見方が変わります。サイト単体は月間営業利益の12〜24か月分が相場とされ、純資産を除いて210万〜420万円程度が目安になります。何を買うのかで、年数の前提がまったく違う点を押さえてください。

自分の案件で試すときの注意

  • 純資産・利益・私的な支出は、決算書や証憑で裏付けを取ってから当てはめます。聞いた数字のまま計算すると、表の差だけ価格を見誤ります。
  • 純資産は簿価どおりとは限りません。古い設備や売れない在庫、戻らない敷金があれば、その分を差し引いて考えます。
  • 年数は「自分が何年で回収したいか」を先に決め、2年・3年・4年の3通りを並べて見ると判断しやすくなります。
  • 買い手が店に立たず人を雇うなら、その人件費を利益から引いてから計算します。

入力する項目は、純資産・決算書の利益・足し戻す費用・引く費用・年数の5つです。この5つをそろえておけば、今後の計算ツールにもそのまま使えます。

参考にした資料